「日常語訳ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉」今枝由郎

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日常語訳ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉

 

紀元前5世紀、インド北部に位置したサキャ王国に、一人の王子が生まれました。

かれの姓はゴータマで、名はシッダールタといいました。

かれは、29歳で王宮を後にし、六年間に及ぶ修行、思索の末に、35歳で「(真理に)目覚めた人」、すなわち「ブッダ」となりました。

以後、80歳で亡くなるまでの45年間、自らが発見した真理を、平易な日常的な言葉で、あらゆる階層の民衆に親しく語りかけました。

ブッダの言葉は、その死後、暗唱の便を考慮して口唱で詩的な形にまとめられ、初期の仏教テクストの中で、珠玉の双璧とされるのが、『ダンマパダ』と『スッタニパータ』です。

『ダンマパダ』は、恐らく一人の編纂者が、さまざまなテクストから、ブッダの真理の言葉だけを取り出し、簡潔な偈に統一したもので、ブッダの教えの心髄集といえます。

ブッダのメッセージは、まさに時の古今を問わず、洋の東西を超えた普遍性を持っており、2500年を経た現代の日本人にも訴えるものがあります。

 

 

ものごとは心に煽られ、心に左右され
心によってつくり出される。
もし人が、汚れた心で
話し、行動するならば
その人には、苦しみがつき従う。
車輪が、荷車を牽く牛の足跡につき従うように。

ものごとは心に煽られ、心に左右され
心によってつくり出される。
もし人が、清らかな心で
話し、行動するならば
その人には、幸せがつき従う。
影が、からだを離れることがないように。
(一・二)

 

「あの人はわたしを罵った、あの人はわたしを傷つけた。
あの人はわたしを負かした。あの人はわたしから奪った」
そういう思いを抱く人には
怨みはついに消えることがない。

「あの人はわたしを罵った。あの人はわたしを傷つけた。
あの人はわたしを負かした。あの人はわたしから奪った」
そういう思いを抱かない人には
怨みは完全に消える。
(三・四)

 

じつにこの世においては
怨みが、怨みによって消えることは、ついにない。
怨みは、怨みを捨てることによってこそ消える。
これは普遍的真理である。
(五)

 

わたしたちは、死すべきものである。
人々はこのことを理解していない。
しかし、人がこのことを意識すれば
争いはしずまる。
(六)

 

行ないの悪い人は、この世でも、あの世でも
ふたつのところで共に憂える。
自分の汚れた行ないを見て
かれは憂え、悩む。

行ないの善い人は、この世でも、あの世でも
ふたつのところで共に幸せである。
自分の清らかな行ないを見て
かれは喜び、幸せである。
(一五・一六)

 

行ないの悪い人は、この世でも、あの世でも
ふたつのところで共に悔いる。
「わたしは悪いことをした」と思って悔い
悪い境遇(地獄)に堕ち、さらに苦しむ。

行ないの善い人は、この世でも、あの世でも
ふたつのところで共に喜ぶ。
「わたしは善いことをした」と思って喜び
善い境遇(天)に生まれ、さらに喜ぶ。
(一七・一八)

自分の過ちを指摘し、教えてくれる
聡明な人に出会ったら
宝のありかを教えてくれる人につき従うように
その人につき従え。
そのような人につき従うならば
善いことはあっても、悪いことはない。
(七六)

 

悪友と交わらず
卑しい人と交わるな。
良友と交わり
尊い人と交われ。
(七八)

 

戦場において
百万の敵に勝つよりも
己一人にうち克つ人こそ
じつに最上の勝者である。

自己にうち克つことは
他人に勝つことよりもすぐれている。
つねに行ないを慎み
自己を制する人

かれの克ち得た勝利
敗北に転ずることは
神も、ガンダルヴァも
悪魔も、ブラフマー神もできない。
(一〇三・一〇四・一〇五)

 

礼節を守り、つねに年長者を敬う人には
寿命と美しさ
楽しみと力
この四つが増大する。
(一〇九)

 

悪い行ないの果報(報い)が熟す(形になる)までは
悪人でも好い目に遭うことがある。
しかし悪い行ないの果報が熟したときには
悪人は災いに遭う。

善い行ないの果報が熟すまでは
善人でも災いに遭うことがある。
しかし善い行ないの果報が熟したときには
善人は幸いに遭う。
(一一九・一二〇)

 

「わたしはその果報を被らない」と思い
悪い行ないを軽んじてはならない。
水は一滴ずつ滴り落ち
水瓶を満たす。
愚か者は、悪い行ないを少しずつ重ね
やがて災いに満たされる。

「わたしはその果報を享受できない」と思い
善い行ないを軽んじてはならない
水は一滴ずつ滴り落ち
水瓶を満たす。
善人は、善い行ないを少しずつ重ね
やがて福徳に満たされる。
(一二一・一二二)

 

他人に教えるとおりに
自分で行なえ。
自己をよく制してこそ、他人を制することができる。
自己を制するのはじつに難しい。
(一五九)

 

自分こそが自分の主である。
他人がどうして主でありえようか?
自己をよく制したならば
得難き主を得る。
(一六〇)

 

怒りには、怒りを捨てることによってうち勝ち
悪い行ないには、善い行ないによってうち勝ち
物惜しみには、施しによってうち勝ち
虚言には、真実によってうち勝て
(二二三)

 

他人の過失は、気がつきやすく
自分の過失は、気がつきにくい。
他人の過失は、仔細もらさず暴くけど
自分の過失は、隠してしまう。
狡猾な賭博師が
不利なサイコロの目を隠すように。
(二五二)

 

他人のあらを探し
つねに非難しようとする人は
心の汚れが増大し
心の汚れを消すことができない
(二五三)

 

「世のもろもろのことはすべて、無常である」と
叡智によって理解したならば
苦しみはなくなる。
これが清浄に至る道である。

「世のもろもろのことはすべて、苦しみである」と
叡智によって理解したならば
苦しみはなくなる
これが清浄に至る道である。

「世のもろもろのことはすべて、我ならざるものである」と
叡智によって理解したならば
苦しみはなくなる
これが清浄に至る道である。
(二七七・二七八・二七九)

 

 

日常語訳ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉
今枝 由郎 トランスビュー 2013-10-10
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今枝 由郎
1947年生まれ。1974年にフランス国立科学研究センター(CNRS)研究員となり、91年より同研究ディレクター、現在に至る。専門はチベット歴史文献学。著書に『ブータンに魅せられて』(岩波新書)、『ブータン仏教から見た日本仏教』(NHKブックス)、訳書に『ダライラマ 幸福と平和への助言』、『仏教と西洋の出会い』(フレデリック・ルノワール著、共訳)『人類の宗教の歴史』(フレデリック・ルノワール著)(いずれもトランスビュー)などがある。

 

 

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