古神道には教えがありません。
教祖がいない。
教義もない、経典もない。
大自然が相手なので、そういうものは一切ない。
自然が教師であるということを古神道は唱えています。
古神道は生活の道、生活そのものが「神随ら」(かんながら)の道として伝えられてきています。
神になる
日本の古神道では、神が産みたもうたと。
神が産んだ子供たちであるから、人間も神の子である。
しかも霊魂を一人ひとりが受け継いできていますから、人間は御神体そのものを表現した姿である。
地球は神のお宮であり、神の子である人間はその御神体であるということになるわけです。
ですから、人間が心から罪とか汚れを祓いさって、本来もって生まれた本性、本質的なものに立ち還れば神になる。
もともと神の性をそなえている人間が毎日、神に復帰するのです。
分け御魂
日本には神道という言葉も、古神道という言葉もなかったのです。
しかし、仏教や道教や儒教やらが中国から入ってきたために、さてそれでは日本古来のこの道を何と名付けたらよいものかと、神道という言葉になったのでしょうか。
神道の場合は、神さまが人間をお産みになった。
もちろん山川草木、この地球も太陽も月も神さまがお産みになった。
だから太陽と月と星と、それからこの地球上のあらゆる動物、植物、鉱物、人間もみな兄弟、同胞であると。
みなそれぞれ神の御魂の分け御魂であると、そういう信仰が古神道です。
どういうところに行っても、血のつながりのある親子であり、兄弟であるという受けとめかたであります。
和の精神
我が国の古代人は自然をよく観察し、深い感性でその自然の営みを我が人生にも取り入れました。
自然の働き、大自然の営みに畏敬の念をもって素直に受け止めていました。
非常に大きな自然との共生という、信仰のような麗しい暮らしぶりが我が国の古代人には見られるわけです。
これを和の精神とか、和の心とか言いますが、本来そのように調和のとれた自然に順応する生活のなかから日本人の独特の心情、感性豊かな生活態度というものも表れて来るわけです。
我が国の古代人は、自然に順応する生き方を尊いものとしてきました。
生活信仰
日本人は「無宗教です」と言う人が多いですが、決して無宗教ではないわけです。
潜在的な信仰というのが日本人にはあるわけです。
縄文の古代から大自然の運行、そういう動きを神の働きとしてとらえ、自然に対する畏敬の念は日本人の心から消えることはないわけです。
なぜなら古神道というのは、宗教というより、自然と人が共生する生活の習慣であるからです。
あえていうなら生活信仰というものです。
火を使うときは火の神様を拝む、井戸の水を汲み上げるときは水の神様を拝む。
このように日本人には自然に対する、火や水に対する畏敬の念というのが常に働いていたのです。
神ながらなる大道へ
神ながらの道とは、天然、自然のままにという意味でもあるわけです。
天然と自然という言葉はほとんど等しく使われていますが、実は天然の「力」が自然に及ぼされて、我々の目に見える現象界が現れているわけです。
こういう思想・言葉は地球上のどこを探しても日本列島以外にはなく、日本語はそういう上古代の人達からの言葉が現に生きて使われているという国柄なので、「日本は神の元の国である」と表現されてきたのです。
その神ながらの道がこれからの新しい21世紀を迎えるにあたって、地球をリードする原理、原則になるわけです。
神ながらの結びが原理となるわけです。
古神道入門―神ながらの伝統 | ||||
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小林美元(こばやし びげん)
昭和2年台北市生まれ。台湾総督府台北高等商業学校在学中、 学徒動員令により、海軍第4艦隊高雄警備司令部に勤務。ながき従軍中に死生を深刻に観続けてきた。戦後同校卒業後、昭和30年には熱田神宮学院にて神職の資格所得。同年、熱田神宮出仕拝命。爾来、熱田神宮奉仕12年、熊野本宮大社奉仕1年、大神神社奉仕11年、石切剱箭神社13年、合計37年。欧米人の神道研修会指導のために5度1ヵ月ずつフランス・イタリア等に出向。現在古神道研修のリーダーとして東京・大阪・京都・西宮・神戸等各地で研修会主催。著書「実録ヨーロッパの神道研修」平成2年1月、天皇・皇后に献上、天覧台覧を賜る。平成17年6月没。