仏教の開祖ゴータマ・ブッダは、指導者になるという意識はなく、超人間的存在の力に頼ることもなく、奇跡を求めるのでもなく、人間として、ただひたすら宇宙の理法(ダルマ)を追究し、それを人々に熱心に説き示してきました。
80歳の最後の最期まで、真実の自己の実現に、宇宙の理法の体現に真剣に努力し、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい』という言葉を残して、安らかに息をひきとったのでした
真理への目覚め
ゴータマ・ブッダは菩提樹の下で瞑想し、さとりを開いたといわれています。
時に35歳。これを成道(じょうどう)といいます。
『聖求経』によると、ゴータマ・ブッダは、生・老・病・憂い・汚れなき無上の完全な安穏の安らぎをえて、自分の心の解脱は不動であり、これが最後の生である、という智慧と見識が生まれ、もはや再生はない、と自らの成道の内容を回想しています。
『サンユッタ・ニカーヤ』では、四神足(神通力)が修練され豊かにされたときに、こころの解脱・智慧の解脱が得られると説いています。
『律蔵』中の「マハーヴァッガ」(大品)によると、ゴータマ・ブッダは「十二支縁起」(十二因縁)の理法を観じて、さとりを開いたと考えられています。
慈悲の実践
仏教で特に強調されるのは『慈悲』の実践です。
人間は我執を離れることができれば、他人との対立・抗争を離れ、自らもろもろの美徳が現れます。
その美徳は究極的には、『慈悲』です。
慈悲とは純粋な愛であり、憎しみと裏腹の世俗の愛とは本質的に違うものです。
あたかも母親が身命を賭して、自分の独り子を守護するときの愛のごときものです。
初期の仏教は、そのような純粋な愛をもって、一切の生きとし生けるものを愛することを強く勧めています。
他の識者の非難を受けるような
下劣な行いを決してしてはならない
一切の生きとし生けるものは
幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ
(「スッタニパータ」第一章の「慈しみの経」)
ブッダを語る (NHKライブラリー)
前田専学著