気がきく人のいる空間には、つねにいい空気が流れている。
空気を読んで周りに気配りができ、気を回して動けるそんな「気のセンス」のいい人は、組織やチームのなかで高く評価される。
ビジネスでも教育の現場でも、できる人は例外なく気働きができる。
社会生活を営んでいるすべての人に必要不可欠な素養、それが「気のセンス」だ。
とくに日本の社会では、気がきく人がことのほか愛される。
日本には、人と人との『あいだ』に流れる空気を大切にし、その機微を敏感に読み取ってきた独自の「気」の文化が根付いているからだ。
気がきく、気配り、気遣い、気だて、気働き、気を回す、・・・
気の用法一つとっても、非常に豊かなバリエーションがある。
関係性を重視した日本語の構造や表現は、呼吸を基盤として身体文化とセットになって私たちの「気」の感性を豊かにはぐくんできた。
そこで培われてきた気の力は、いまや急速に失われつつある。
場を読む
気のセンスとは、場の空気を的確に読んで働きかけていく力のことだ。
表情からかすかな変化を感じ取る力が、空気を読む力である。
言い換えれば、場を読む力とは、「兆し」をとらえる力だ。
誰かの表情に否定的な兆しを感じ取れれば、早めに手を打つことができる。
まさに「全身の毛穴を開く」感覚で臨むことで、場の流れに対するセンスは身についてくる。
気のセンス
「気」とは、身体から発せられているエネルギーだ。
それが混じり合って場の空気というものはつくり出されている。
自分の内側に流れているものだけではない、外側の人との『あいだ』を流れているものでもある。
私たちのからだは、息を通して内と外が混じり合っている。
自分の内側の世界と外側の世界を峻別しないで、そこに流れているものを「気」だと考える。
外側に流れているものを内側の身体感覚でとらえるのだ。
場に流れる気をつかむ感度にすぐれ、場の気の流れに的確に働きかけることができる、これが気のセンスのいい人だ。
つまり、気のセンスとは、「場の空気の感知力」と「場の流れを変える力」の二つの要素からなる。
気のセンスは、誰でも容易に磨くことができる。
なぜなら、気のセンスは、声や呼吸、背中の感覚といった、誰でもがもっている身体感覚と結びついた、日本人にとってなじみの深い文化だからだ。
気の感性の衰退
もともと日本人は、人と人との『あいだ』に流れるものをつかもうとする感性が発達していた民族である。
しかし生活様式が欧米化し、生活が合理化されていくにしたがって、連綿と培われてきた日本古来の伝統は、次々と崩されていく。
「気」の文化を根底で支えていたのは、腰肚文化で培われていた身体感覚である。
だが戦後教育において、武道や暗誦・朗読、四股、坐禅、呼吸法といった、それまで脈々と続いていた日本人の身体文化は切り捨てられ、生活環境の激変とともに、「気」に関する感性もまた急速に衰退していった。
「気」と息の文化
「気」の根幹にあるのは、息の文化である。
息はからだの内側と外側をつなぐものだ。
古代から、「気」と「息」は非常に密接なものとして考えられてきた。
深くゆるやかに丹田呼吸を行い、息を丁寧に感じてみると、しだいに自意識が解き放たれ、内と外が混じり合うような感覚になってくる。
自分が呼吸をしているという感覚が消え、周りに「呼吸させられている」と感じるほどに、世界と溶け合ったような一体感が訪れる。
息を吐ききって生まれたスペースに、自然とまた息が満ちてくる。
この「積極的受動性」の感覚が、禅の精神性の境地であり、日本人の宗教性の根底にあった。
呼吸を通して、内と外は溶け合い、世界と一体化する。
「積極的受動性」という心身のスタイルが、日本人の「気」の文化の核心にはある。
気の流れを変える
日本語にはさまざまな受身表現が数多くあるが、文脈のなかで柔軟に関係性を読み解き、『あいだ』に流れる機微を表現してきた。
合気道、太極拳、柔道でも、基本にあるのはいかに相手を「受ける」かである。
禅の修行においては、呼吸を通して内と外が混じり合う一体感、積極的受動性を身につけることを目指した。
受動的な感覚のなかで物事を柔らかく受けとめてきた日本人の感性は、今度は積極的に「いかに場に働きかけるか」「流れを変えるか」といったときも、そのまま生きてくる。
「気」はいかようにも、流れを変えられるものである。
場が停滞しているとき、「気が合わない」とき、「気」のありようを変えれば、関係性も変えられる。
気のセンスを磨いて、そこに積極的な流れをつくる。
気の好循環は、生きる喜びの根源だ。
心地よい気の交換は、十全に生きること、そのものでもある。
今ここにある気を感じる
「気」は、古代インド、古代中国をはじめとして、宇宙の原理としてとらえられてきた。
そうした「原理としての気」以上に、日本人が日常生活のなかでこれまで当たり前のように使いこなしてきた「文化としての気」の日常用法を細やかに築き上げてきたところに、私たちはもっと誇りを持っていいと思う。
まさに「なにげなく」行ってしまうところに、「気」の技の妙味はある。
超絶的なパワーを求めるのではなく、「今ここにある気」を感じてみよう。
日常のなかで「気」の技を感じ磨いてゆくことこそ、「気の力」復活のはじめの一歩であり、目指すべき目的である。
気の力―場の空気を読む・流れを変える
斎藤孝(さいとう たかし)
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~saito/
1960年静岡県生まれ。東京大学法学部卒。同大学教育学研究科博士課程を経て、明治大学文学部教授。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。主著に、『身体感覚を取り戻す』(新潮学芸賞)、『声に出して読みたい日本語』(毎日出版文化賞特別賞)など多数