瞑想とは、人生の様々な場面における生き方、存在の仕方、あるいはそこで起こっていることへの自覚や探求の姿勢ではないでしょうか
すなわち、気づきを中心とした対人関係における探求のことです。
ひとりでいるとき、誰かと話しているとき、電車に揺られたり、仕事をしたり、遊んだり、大自然の中にひとりでいるときにも、どんな場面にいても私たちは心の向け方次第で瞑想的にあることができます。
瞑想とは、私たちが自分の感情や思考、さらには外界の人や事物など諸々の対象と接する中で修養していく意識のあり方なのです。
瞑想は日常のあらゆる場面において気づきを養い、気づきを深めていくレッスンです。
瞑想では、自分の本質を知ること、心を開いて現実をありのままに受け入れること、実を理解すること、執着や思い込みを手放すこと、苦しみから解放されること、自他を共に受容して慈しむこと、無条件の愛が湧き出してくることなどがひとつのこととして体験されます。
無我の公式
無我とは、我があるとか無いとかの問題ではありません。
「私」が、実は思い通りにならない無限の微細な「非連続的な私の物語」から編集構成されて作り上げられてきた仮想の虚構であることを認めることです。
現実の日常生活では、私たちは思い通りにならない出来事に出会い続けます。
無限なる出会いにおける試行錯誤に心を開いて、受け入れ、理解し、愛することを学び続ける姿勢が無我であり、空であります。
ありのままに洞察
伝統的な仏教の瞑想修行では集中と洞察を止観(サマタ・ヴィパッサナー)と呼んできました。
サマタは心を静めることを意味し、ヴィパッサナーとはものごとのありのままを洞察する智慧です。
集中はサマーディ(三昧)とも言われます。
心をひとつの対象に持続的につなぎとめるようにすると、心は安定しリラックスして対象とひとつになっていきます。
ヴィパッサナーは、気づきや自覚の中で諸々の対象や心をありのままに洞察します。
ヴィパッサナー瞑想とは
ヴィパッサナーとは、「対象にしたがって、何回も繰り返しながら、洞察的に、様々な視点から見つめること」です。
見つめる姿勢を確立することをサティ・パッターナ(気づきの・確立)と呼びます。
ブッダは最初の説法でそれを「ありのままに見る智慧」であると表現しました。
ヴィパッサナー瞑想では、そのつど明瞭になってくる対象を、丹念にはっきりとありのままに繰り返し見つめることによって、心身の複合的な作用がひとつひとつ解けて分解されてきます。
ヴィパッサナーでは、そうやって分かれてくる対象を、便宜上は身体、感受、心、心身プロセスと法則性という四領域に区分しておくというわけです。
無意識への道
ヴィパッサナー瞑想修行では、坐禅や歩行瞑想の他に日常行為のすべてを注意深く見つめていくことが強調されます。
坐って呼吸を見つめているときに、出てくる想念や感情はもちろんのこと、歩いているとき、食べているときなど、目覚めているうちに心に現われてくる多くのものを、瞑想の対象として見つめます。
この瞑想では、呼吸や無自覚的な癖を含む、あらゆる身体動作に関する気づきが、無意識への道を開いてくれるのです。
それは夢の分析を通して無意識にアプローチする手法以前の古いブッダ(目覚めた人)の智慧です。
それまで無自覚だった日常行為や身体動作に付随して起こっている心の働きを見つめていくことは、私たちが目覚めている間に見ている夢に気がついていくことになるのです。
無我の教えと空
私たちが自分だと思ってつかんだものは、よく見てみるとそのすべてが変化していきます。
病になることもあるし、時を経て死んでいきます。
変化して消えていくものはある種の喪失の痛みを感じさせます。
変化消滅をどうにもコントロールできないことは、苦しみの印象を与えます。
その苦しさや痛みから逃れようとして、心はかくあるべき「私」を作り上げようとします。
苦しみ、悲しみ、痛みは誰のものではなく、ただそこに縁あって生じて、縁尽きて消えていくものなのだと理解できます。
誰のものでもないのだけれど、私たちは皆苦しみ、悲しみ、痛みを感じます。
無常であることを理解する、苦しみの意味を受け止める、無我であることを悟るということは、常に「私」を作り出そうとする習慣に気づき、やさしくそれを溶解し、その呪縛から解放されることです。
内なる批判者の声
「瞑想中に雑念が出てきて困る」「雑念ばかりで心が落ちつかない」という声をよく聞きます。
これは集中型の瞑想をしているときの感想なのです。
何かひとつの特定の対象だけに集中しようとすれば、それ以外に浮かんでくるものはすべて雑念であり、集中の邪魔になりますから、排除しなければなりません。
これに対し、気づき主導の瞑想の場合には、どんなものが出てきてもそれを対象としてありのままに見つめていくので雑念というものはありません。
ただ聞こえたり、見えたり、思い出したり、考えたり、寂しかったりする想念が浮かんできては消えていくのをありのままに見つめ、感じていくだけです。
「雑念だ」という思いがあれば、それも「裁いている」、「邪魔者にしている」、「排除している」という心の働きとして見つめます。
ところが、一般的に熱心な瞑想者ほど、この雑念払いの習慣に無自覚な場合が多いものです。
雑念のない静かな状態がいい瞑想だという先入観があるので、「雑念め」「あっ、しまった雑念だ」という心の背後にある裁く心、排除する心に気がつきにくいのです。
瞑想の中で気づきが確立するためには、この内的な批判者の声を自覚化する必要があります。
四つの聖なる真理
ブッダの教えは、苦しみ関する四つの聖なる真理です。
1. 苦しみの聖なる真理
2. 苦しみの起因の聖なる真理
3. 苦しみの消滅の聖なる真理
4. 苦しみの消滅に至る実践の聖なる真理
ブッダは最初の説法で、苦しみに関する四つの聖なる真理について説きました。
苦しみを最近の西洋仏教では「不満足性」と訳されることが多くなってきました。
今与えられた状態に満足できず安らげないこと、他の状態、よりよい状態、より完全な状態を求める力動が苦しみだという解釈です。
スピリチュアルな窓口
生まれること 年老いること 病気になること 死ぬことこれを「四苦」といいます。
私たちはあらためて生老病死の苦しみに目を向けて心を開いて向かい合うことが必要なのです。
そこにある痛みや苦しみは、深く生きることを学び、
自分の本質に出会うためのスピリチュアルな窓口になります。
私たちは自らの中に、生老病死を取り戻すことが必要なのです。
学びのチャンス
離別や喪失は、私たちが本質へと目を向ける窓口を与えてくれます。
嫌いなものと出会うことは、私たちの影の部分のありかを示唆してくれる学びのチャンスです。
嫌いだと思うその対象が映し出してくれるものは何か、受け入れたくない、認めたくないものは何かをゆっくりとやさしく見つめていきましょう。
それは長い間閉じ込めていた自分の一部分を回復すること、見知らぬモンスターが最高の盟友に変身する体験となるかもしれないからです。
苦しみの中にあって、今ここの一瞬に与えられた宇宙の完全さ、全一性を感じ、永遠に触れ、満ち足りた静けさに触れることもできます。
それが神を知り、神の愛に触れ、涅槃の静寂さを悟ることなのでしょう。
私たちはそのために瞑想するのです。
私たちは苦しみを窓口として、自らの本質を尋ねる動機を得て、切り離されていた宇宙の全体性を自らの内に回復し、今ここの永遠に触れて安らぎ、その静寂さをもって日常に帰る勇気を得るのだと思います。
そう思うと「四苦八苦」するのも悪くありません。
苦しみの原因
ブッダは苦しみの起因は『渇愛』であると洞察しました。
タンハーと呼ばれる渇愛は、喉の渇いた人が水を欲しがるような衝動的欲求です。
あちらこちらの対象で楽しみ、何度も再生を繰り返します。
渇愛が習慣化すると執着になります。
根本経典「全漏経」には、漏れ出してくるあらゆる煩悩を手放すための七つの手法が紹介されています。
1. とらわれた見方を離れて開かれた見方をすること
2. どんな感覚体験をしているのかを見守ること
3. 必要なものを適切に受けとり使用すること
4. 避けられないものは忍耐すること
5. 不適切なものは打破すること
6. 手に負えないものは回避すること
7. 気づき、探求、精進、喜び、リラックス、集中、平静を培うこと
何かを受け取り、自分のために用いることで、煩悩が捨て去られる場合があるのだということは興味深いことです。
障害物から学ぶ
心の穢れは苦しみを生みます。
ですから無い方が楽でしょう。
しかし、心の穢れは抑圧したり除去しようとしても無くなりません。
押し込められ、抹殺されたものは必ず再生して何らかの形で声を上げます。
抑圧したり、排除したり、抹殺しようとするとそれは再生するのだということを認めたうえで、そうではない手放し方、捨て去り方があるのだということを示唆しているのです。
心の穢れと呼ばれるものは叩き潰したり押さえつけたりするより、穢れとは何であるのかを探求し、その自然な死を見取るといった方がいいのではないでしょうか。
官能的欲望
欲望は対象を手に入れても、一時的に満足するだけで、すぐまた次の対象を求めてうごめき始めます。
欲望の奴隷状態から解放されるためには、まずそのようなさまざまな抵抗をできるだけ手放して、そこにある欲望に心を開きます。
そこで自分が何を求めているのか?
何を感じたいのか?
何をして欲しいのか?
そういったことを素直に探求します。
「手放すこと」と「養うこと」
私たちが瞑想を通して学ぶことは、「手放すこと」と「養うこと」の二つにまとめたれるのではないかと思います。
現象をありのままに見つめるヴィパッサナー瞑想の実践で、自然に消え去って行くものをそのままに手放していくことを学びます。
自分の中にあるさまざまな思い込みや執着を手放せるようになっていきます。
私たちは手放すほどに、身体感覚や感情や思考の現実をありのままに生々しく、ときには傷つきやすいほど敏感に感じるようになります。
そこで命の力動的な流れを生き生きと感じます。
無我や空を悟るということは、「我」にこだわらずに私を創造的に生きる、楽しむ、遊化することができるということです。
無我に生きる私は、ひとつひとつの出会いの中で生命の現実をしっかりと見つめ味わいながら、多くの試行錯誤や不確実性に心を開き、私を通して命の新鮮な表現を創造し続けます。
それは分断されていない命の全体性が持つ慈愛の現われです。
その慈愛の瞑想が人生を養うのです。
井上ウィマラ
1959年山梨県に生まれる。京都大学文学部哲学科宗教学専攻中退。曹洞宗で出家し道元禅を学ぶ。縁を得てビルマに渡り88年テーラワーダ仏教にて出家、ヴィパッサナー瞑想、パーリ経典とその解釈学、アビダルマ仏教心理学などを学ぶ。タイ、スリランカ、イギリスを巡礼して91年に帰国後、経典の翻訳に関わる。93年よりカナダ、イギリス、アメリカにて布教と瞑想指導にあたる。97年マサチューセッツ州バリー仏教研究所の客員研究僧を最後に還俗。98年マセチューセッツ大学医学部でのストレス・リダクションプログラムのインターンシップを特待生として研修後帰国。宗教の枠を超えて瞑想を医療や教育、福祉の現場に手渡す方法を模索している。訳書に『呼吸による癒し』『やさしいヴィパッサナー瞑想入門』(共に春秋社刊)がある。