「チベット死者の書―仏典に秘められた死と転生」

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「チベット死者の書(バルド・トドゥル)」は、チベット仏教の伝統から生まれた経典です。

死に臨む人の耳元で、死の直前から死後四十九日間にわたって、この経典を語り聞かせるのです。

生命の本質は心であり光であるという思想とともに、いかに死すべきかという死の技術が説かれています。

チベット語の「バルド」は中間の状態を表し、「トドゥル」は耳で聞いて解脱するというような意味を持っています。

「バルド・トドゥル」では、人は死ぬと「バルド」という別の状態に入ってゆくのだと説明しています。

死はすべての終わりではなく、死者の意識は、死後バルド(中有)世界に入ってゆき、さまざまな体験をする様子が詳しく書かれています。

 

現代に生きるバルド・トドゥル

「バルド・トドゥル」は、かつてチベット文化圏の中だけで、実際の葬儀に使われていた特殊な経典でした。

しかし、20世紀の前半に翻訳本が西洋社会に紹介され、大反響を巻き起こしました。

心理学者のユングが感激し、60年代アメリカの若者たちの座右の書となったのです。

現代は、ホスピス病棟でエイズやガン患者たちの心の安らぎに読まれはじめました。

幽体離脱や光の幻影など、最近の臨死体験などの研究結果と一致することでも注目を集めています。

 

人は死後どこへ行くのか

「バルド・トドゥル」には、死後の世界が一日ごとの時間経過で具体的に描かれています。

第三の「光明の」バルドでは、激しい混乱をきたす業の幻影が現れます。

この頃には、死者の親類はすすり泣いたり泣き叫んだりしています。

死者の側からは親類たちの姿が見えますが、彼らには死者が見えません。

彼らが自分の名前を呼んでいるのが死者には聞こえますが、こちらが親類たちを呼んでいる声は、彼らには聞こえません。

そんなわけで、死者はがっかりしてしまうのです。

このとき、音、色とりどりの光、そして光明という三つの現象が起こり、死者は恐怖と驚愕で、徐々に意識が薄れてゆきます。

『バルド・トドゥル』は、「人は死後どこへ行くのか」という大きな問いに答えながら、「人はどこから来たのか」という問いにも答えているのです。

 

死者に向かって説く

死の前から読みはじめられたこの経典は、死者が荼毘に付されたのちも、四十九日間、死者に対して毎日読み続けられます。

「高貴なる生れの者よ。

あなたには死が訪れました。

この世を去るのはあなた一人ではありません。

だれしも死ぬのです。

ですから、この世に望みや執着を持ってはなりません。

望みや執着があっても、この世にとどまることはできないのです。

輪廻しさまよいつづけるほか仕方ないのです。

欲を持ってはなりません。執着を持ってはいけません。

 

解脱のための経典

四十九日の意味は、どんな死者もこの間には、輪廻して生まれ変わってしまう期間です。

チベット仏教では、死んでゆく瞬間を、飛躍できる「解脱」の最大のチャンスと考えてきました。

死者が入ってゆくバルドの状態は中間的で、物質的な身体や現世の条件にとらわれないので覚りを得やすいという考えなのです。

すなわち、「バルド・トドゥル」は、死者が再び生まれ変わってしまう輪廻への道を避け、解脱へ向かわせるための経典なのです。

「バルド・トドゥル」は、死者の意識がそれぞれのバルドで体験している神秘的な現象の意味を説き聞かせ、死者の意識を恐怖や欲望から解放させようとします。

それと同時に、僧侶が声に出して読みつづけることによって、死者の家族にとっても、死とは何であるかを教えていることになるのです。

 

生も死も一つのプロセス

「チベット死者の書」が語りかけるように、実は生も死も同じバルド(中有)なのです。

つまり、生と死が別々に分かれているのではなく、一つのプロセスなのです。

つまり旅のようなものです。

だからこそ、今のこの瞬間を大切に過ごさなければ、本質には行き着かない単なる旅で終わってしまうということなのです。

 

死は終わりではない

チベット人が死を恐れない最も大きな理由は、だれもが輪廻を信じているからです。

死はすべての終わりではないと考えているのです。

この輪廻思想は、仏教を生み出したインド思想に連綿と流れているものでした。

チベットの寺院の入口には、必ず六道輪廻図が描かれています。

だれでもが物心ついたときから、人の生命はこの六つの世界をグルグルと転生していると教えられます。

生命の不死性を素直に信じこんでいます。

輪廻の思想は、人と動物の区別がないところから成立する考えです。

人間が万物の霊長で、人と動物が峻別されるユダヤ・キリスト教的な世界観からは生まれてきません。

 

輪廻転生からの平和思想

この輪廻思想から出てくるのは、不死性だけではありません。

たとえば、仏教やヒンドゥー教の菜食主義者は、殺した動物は人間の、もしかしたら先祖の生まれ変わりかもしれないという気持で肉を食べないわけです。

また生命は、人も動物も昆虫も同じように尊いという気持が、アヒムサ(不殺生)の平和思想を生み出しました。

 

ダライ・ラマへのインタビュー

死への心構えを人生の一部に組み込まなければいけません。

生老病死すべてが、私たちの人生の一部なのです。

また来世をどう考えるかにも多くよっています。

もし生の連続性を受け入れたならば、死は一つの出来事にすぎず、服を着替えるのと変わりありません。

あなたは自分が着ていた服が古び、すりきれると、それを捨てて新たな服をまとうでしょう。

それと同じようにこの古い肉体がもはや正しく機能しなくなったら、新たな肉体に着替えるのです。

こうした心構えを抱けば、死は単に人生の一部というだけでなく、より深い経験を試みるまたとない機会になります。

死は必ず訪れてくるのです。死を避けるのは不可能です。

ならば、今のうちに死について考えを巡らし、それを受け入れておいたほうがいいのではありませんか。

そうすれば、死が実際にあなたを訪れたときに、ずっとそれに対処しやすくなっているでしょう。

 

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チベット死者の書―仏典に秘められた死と転生

河邑厚徳
1948年生まれ。1971年東京大学法学部卒業後NHKに入る。主にドキュメンタリーを担当。最近はNHKスペシャル大型企画「アインシュタイン・ロマン」の制作、神話シリーズの企画開発など

林 由香里
1964年生まれ。1987年東京大学教養学科卒業後NHKに入る。主に報道番組で「ニュースtoday」「ニュース21」などニュース番組を担当しながら「NHKスペシャル・アメリカのジレンマ」「NHKスペシャル・星と風の航海者たち ― 南太平洋クック諸島」などを手がけ、NHKスペシャル大型企画の企画開発を担当する

 

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2 comments

    • Julia on 2013年11月9日 at 1:10 PM
    • Reply

    私の(老齢の)両親などは、あとどのくらい生きられるか。。と 一応覚悟はしているようですが、
    それでも「死ぬのは怖い」とか 「(死んでしまって)かわいそうに」といつも言っています。
    友人や兄弟などがあの世へ旅立つたび、我が身にも迫り来る死を連想して気が重くなるようです。

    死は決して恐ろしいものではなく ある意味、ひとつの人生の卒業だと考えられたら、
    もっと穏やかな気持ちで死を受け入れることができるのに・・と思います。

    幸せなことに、私は書物のおかげでそういうふうに考えることができるようになりましたが、
    まわりの人に、当たり前のこととしてそういうことを告げてあげられる、
    いわゆる部族のシャーマン的存在の人がもっとたくさんいれば、
    多くの人々の心が もっと平安に包まれるでしょうに・・・。

    (昔からの宗教的な教えを守って平和に暮らしている少数民族のほうが(侵略・競争を良しとするいわゆる文明国家より) 
    精神世界の文化水準は高いのではないかと思います)

    1. Juliaさん
      死は肉体がなくなるだけで、魂は死なないということがわかれば、死を恐れることはないのでしょうね。
      この世への執着が強いと、死は受け入れられないかもしれません。
      部族のシャーマン的存在の人がいる社会では、確かに精神意識は高いと思います。
      自然崇拝をしている民族の精神性は、文明社会より高いのでしょうね。
      資本主義を超えた精神性の高い社会が到来するか?期待するところですが・・・
      いつもコメントありがとうございます。

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