性格はとても変わりやすい。
放っておくと性格はどんどん変わってゆく。
しかし、人間は自分の性格を変えないための能動的な努力をたえずやっているのです。
だから変わらない。
性格を変えるということは、危険を犯すということなのです。
今までの生きかたを保ってゆくのであれば、ともかく何が起こるのかはわかっている。
しかし、まったく新しい生きかたを始めるとすれば、何が起こるかまったくわからない。
大儲けかもしれないが大損かもしれない。
人間は、そんな大バクチには、めったに賭けないものです。
人は思い込みから自由になれない
性格というのは、その人固有の信念の体系なのです。
すなわち、思い込みのシステムです。
個人の思い込みは、一種の色眼鏡として作用して、その人の信念体系に合致するように、世界を勝手気ままに解釈してしまいます。
人間は皆、ひどく思い込みの強い人ばかりで、思い込みに凝り固まって生きているのです。
信念に反する事実があらわれても、無視してしまうか曲解してしまう。
こうして、性格はますます変わりにくくなる。
思い込みは実現してしまう
環境が人間を作り、人間が環境を作る。
いったん、ある性格を持つや、その人は周囲の環境を、自分の性格に、あるいは信念に合うように作りかえてゆく。
「すべての人は私の味方だ」と思って生きている人のまわりには、実際にいい人ばかりが住むようになる。
その人たちは、おのおのの信念をいっそう強めてゆく。
環境との相互作用の中で、「性格は非常に安定になるわけです。
性格を保つのをやめようという決断
性格を変えるために必要な決断は、「性格を変えよう」という決断ではなく、 「今の性格を保つのをやめよう」という決断をすることです。
「性格を変えないでおく努力をやめよう」という決断です。
「今までの行動パターンを、とにかく捨てよう」という決断だと言ってもいい。
今までの常識を、たとえそれがどんなに正しいと思えても、一旦棚上げにして、虚心坦懐に対応してみようと決断すること。
この決断ができる人は変われるのです。
性格とは、その人なりの人生の法則です。
不安さ、不確定さを引き受ける勇気を持たないと、性格は変えられない。
次に何がおこるかわからないということを引き受ける勇気さえ持てば、性格は簡単に変わるということです。
アドラー心理学の「性格」
アドラー心理学では「性格」のことを、「ライフスタイル」と言います。
ライフスタイルとは、「自己と世界の現状と理想についての信念体系」です。
ライフスタイル、すなわち性格とは信念だと言ってもいいのです。
信念は、たえず「考え」に侵入してきて影響を与えます。
だから、考えにとらわれて、考えを信用しているかぎり、信念を信用しているのであり、自分のライフスタイルの正しさを信用しているのであり、したがって、性格はけっして変わらない。
そうではなくて、しばらくの間でいいから「実際におこっていることは何なのか」ということだけ見て暮らすと、性格が変わる可能性は大変大きくなる。
大切なのは「人生の流れ」
私たちが着目しているのは、「人生の流れ」「運動」なのです。
過去・現在・未来をつらぬく、運動の流れ。
目的は未来のどこかにあるけれど、方向は今ここにある。
目的はつねに幻想にすぎないけれど、方向は現実です。
目標というのは、方向の矢印を延ばしていった先に、仮に想定したものなのです。
それは実在しない。
理想も目標もない
人生目標というのは、本当はないのです。
そういうモノを考えてしまうと、幸福になれない。
理想の自分というのを設定しておいて、その理想から現実の自分を引き算して採点すると、ミジメになる。
理想の自分などは、頭の中以外にどこにもいないのです。
存在するのは、今ここにいるこの私だけです。
私がこの私を好きになってやらなかったら、誰も私を好きになってはくれない。
まず、なにがなんでも、ありのままの自分を好きになる。
そこからすべてがはじまるのです。
そのためには、「自己理想」「人生目標」という考えは邪魔になるのです。
「今ここ」に帰る
瞑想すると、われわれは「今ここ」に帰ってきます。
ところが、われわれは「今ここで」のことについては考えることはできません。
考えは「今ここで」のものではないのです。
だから、「今ここ」に帰ってくると、思考の影響を受けなくなる。
「今ここ」にあるものは「感覚」。
五感に写るものそのまま。
瞑想は、過去や未来の思考や感情ばかりに向かっていた注意を、「今ここで」の感覚に連れ戻す操作のことです。
思考の影響を受けなくなると、思考にともなう感情である「不安」と「ゆううつ」は消えてしまう。
「今ここ」に帰ってくると、それまで問題だと思っていたことの多くが、実は問題ではないことがわかる。
心配しなくても、死ぬときは死ぬということです。
思考は役にたたないのです。
思考や感情は外側にある
われわれは、思考や感情イコール自分だと思っていることが多いのですが、それは違う。
思考や感情は、ほんとうは意識の対象であって、外の世界と同じように、われわれの外側にあるものです。
だから、意識が「今ここで」に目覚めていると、思考や感情に巻き込まれないで、それからちょっと離れて見てみることができるようになる。
そうして「今ここで」のできごとを見つめると、出口がみつかり、智慧がはたらく。
瞑想とは
瞑想とは、「目覚めていること」です。
自分の内側と外側におこっていることについて、巻き込まれないで、すこし離れて、はっきりと目覚めていること。
先入観を持たないでありのままに見ること。
「気づいていること」「見とどけること」が瞑想の本質的な定義です。
瞑想して生きるのが本当の生きかたで、瞑想しないで生きると、必ず間違うのです。
間違いであれ犯罪であれ神経症であれ、 この世界のすべての不条理はわれわれが瞑想的に生活していないから存在する。
逆に言うと、われわれが瞑想的でさえあれば、われわれが抱えている諸問題はかならず解決する。
瞑想的に生きる
非瞑想的な状態では、眠ってはいないけど、目覚めてもいない。
普通の人間は、一日の大部分をこんな状態で暮らしている。
そんなだから間違いばかりするのです。
ちゃんと生きるためには、そこから脱却しなければならない。
自分の内側や自分の周囲でおこっていることに、いつでもちゃんと目覚めて気がついていないといけない。
つまり、瞑想的に生きはじめなければならない。
そうしてはじめて、正しく状況を把握することができる。
目標追求をストップさせる
仏教では、すべての苦の原因は欲と言いますが、これは、欲求ではなくて、目標のことではないでしょうか。
無欲とか執着を捨てるとかいうのは、実は欲望を抑圧することではなくて、目標を捨てることだということになります。
瞑想すると目標追及が一時的にせよストップします。
目標がなくなると、劣等感がなくなる。
劣等感とは、理想と現実のギャップのことです。
劣等感とは、理想の自分と較べて現実の自分が劣っているという感じのことです。
目標追求をストップさせると苦はなくなる。
人生目標とは、すなわち理想の自分のことです。
だから、人生目標がなければ劣等感はないことになる。
理想がなくなり劣等感がなくなると、自己受容がおこる。
理想がなければ引き算もなくて、ありのままの自分が満点になる。
瞑想で世界が変わる
瞑想すると、他人や世界全体に対する態度も根本的に変わってくる。
瞑想して目標追求がなくなると、自分中心でなくなり、優しくなれる。
瞑想すると、過去と未来とがなくなり、人生の流れが止まる。
「今ここで」おこっていることを、そのままに見ることができるようになる。
そうすると、世界が美しいことに気づく。
そうして世界が好きになる。
「大好きな私」とも言えるようになるし、「大好きな世界」と言えるようにもなる。
カルマからの解放
カルマから解放されることは、瞑想的であることの究極の意義です。
本当の自由を手に入れること。
子ども時代以来蓄積してきたわれわれの不合理な条件づけから脱却すること。
人類の心理学的な遺伝から自由になること。
われわれの文化や野蛮さは、育児や教育を通じて、われわれの心の中に根強く植えつけられて、条件づけができてしまっている。
だから、機械的に条件づけで行動するのではなく、一つひとつの状況について自由意志で行動を選びはじめなければならない。
われわれが文化から受け継いだものを、ひとつひとつ検証しなければならない。
それは瞑想があってはじめて可能になるのです。
問題はない
自分の中には問題はありません。
自分と世界との間にも問題はありません。
ただあるのは、自分で作りだした問題だけです。
実際には存在しない架空の問題があるだけです。
劣等感に悩み、人目を気にし、感情に支配され、不自由な生きかたをしているのは、ほかならぬ自分だということ。
すべて自分が決断して選んで作りだした不幸なのです。
すべては自分が決めたこと、自分が自分に科している刑罰。
だから再決断しさえすれば、すべてが変わる。
われわれは何かのために、何かをめざして生きているのではなくて、ただ生きているから生きている。
食っているときにはただ食っている。
それが、われわれが十全に生きるただ一つの方法ではないでしょうか。
アドラー心理学トーキングセミナー―性格はいつでも変えられる
野田俊作(のだ しゅんさく)
昭和23年3月10日生。魚座。A型。骨の髄からの大阪人。大阪大学医学部卒。精神科医。シカゴ・アルフレッド・アドラー研究所にてアドラー心理学を学ぶ。アドラー心理学トレーニング・アナリスト。日本アドラー心理学会会長。国際アドラー心理学会評議員。好きなものは酒・歌・女、嫌いなものはゴキブリ。