「死んだらおしまい、ではなかった」大島祥明

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「死んだらおしまい、ではなかった」大島祥明

死んで、終わりではありません。

死んでも、心は変わりません。

悔いなく、未練なく、恨みなく、恨まれることもなく、生きること。

死んでも、心はいまのまま。

だから、この「いま」が大切なのです。

 

霊はたしかに実在する

私は、11年余の間に2046名にわたる葬儀を執り行わせていただきました。

ほとんど毎日が、通夜に葬儀という日々でした。

私にとって、霊魂は、「たしかに実在するもの」なのです。

霊魂を実感すると、死ぬということは、身体と魂とが離れる状態」だということがわかります。

身体というものは、あくまでこの世の借り物・乗り物なのです。

身体がなくなった状態こそが、その人の本質的な姿だと思います。

 

死によって身体と離れると、「本人」だけになります。

外面の被いが取り除かれて「本人」だけになるのです。

そのとき、裸になったほんとうの「本人」が現れるのです。

 

お葬式の本質

亡くなった「本人」はだいたいの場合、遺体の近くにおります。

遺族が僧侶が葬儀を行う様子を、じっと静かに見ているのです。

葬儀の光景も遺族の方々の様子も、「本人」には見えています。

 

けれども実はこのとき、二、三割くらいの人が、自分が死んだことがわかっていません。

私はお経をあげながら、こうした本人に向かって、「あなたは死んだのですよ」と教えていくわけです。

僧侶の執り行う読経や作法というのは、「本人」に対して「あなたは、亡くなったのですよ」と、繰り返し繰り返し教えることなのです。

そういう全体の様子を見て「本人」は、自分は死んだのだと次第に悟っていくわけです。

そして、この世への執着や未練を、断ちきってもらうのです。

これが枕経であり、通夜であり、葬儀を行う意義であるわけです。

 

故人の供養とは

故人の供養とは、ご遺族が行うことであって、決して僧侶がするものではないということです。

ほんとうに「本人」に納得させられるのは、ご遺族の心からの祈りです。

死者の霊に伝わるのは、形ではありません。

霊界は、真の意味の心や気持ちしか伝わらない世界なのです。

遺族の心こそがいちばん「本人」に届くのです。

遺族の「本人」を偲ぶ心が、ほんとうの供養になるのです。

供養だからといって、とくにお経を唱えなくてもいいのです。

 

故人に対するいちばんの供養は、思い出してあげることです。

遺族が故人を偲んで思い出すことによって、

「こうことをしてあげたら、故人はきっと喜ぶだろうなあ」と考えてする行いは、すべて供養になります。

そうした心が故人に通じて、平和な豊かな日々につながっていくのです。

 

先祖供養は大切

日々の家庭の中で、私たちが安心して暮らすためには、ご先祖さまに対する供養が大切です。

いま自分がいるのは、まちがいなく先祖がおられたからです。

だから、自分が存在していることに対する感謝の思いが大切なのです。

 

供養といっても、特別なことではありません。

お仏壇に手を合わせ、ご先祖のことに思いを寄せることが供養になるのです。

 

大切な日々の心

死んでもその人の本質が変わらないということは、死ぬ直前の心のありようがずっとつづくということです。

そうなると、死にぎわが大事になってきます。

だから、常の生き方、日常の暮らし、普段の心のありようがいちばん大切なのです。

 

そのためには、なにが大切なのでしょうか。

仏教では、心を育てる基本として、他を害しないこと、傷つけないこと、相手の心を痛めないことを教えています。

相手の恨みつらみを買わないように、気をつけることです。

 

もっとも大切なことは、自分の心を浄めていくことです。

心を軽くしていくことです。

仏教の教えとは、暮らしの中でたえず心を浄めていくところにあるものなのです。

 

 

死んだらおしまい、ではなかった
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大島 祥明
昭和19(1944)年、大阪市中央区大念寺に生まれる。東平小学校、上町中学校、高津高等学校卒業。佛教大学卒業、同大学大学院修了、文学修士。慶應義塾大学大学院東洋史聴講。大念寺副住職、浄土宗嘱託勤務、四天王寺学園非常勤講師などを歴任。現・浄土宗僧侶、大念寺(千葉県)住職、僧正

 

 

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