神道は、日本文化の基盤であります。
日本人の精神の奥底にある生命であります。
神道の本質は「神様といかにおつきあいするか」「神様のような存在になるにはどうしたらよいか」を追求することにあります。
特に古神道は、個々人の修養を重要ととらえ、行法を伝えています。
古神道を理解するには、神霊の光に触れて初めてわかるのです。
神道は自然宗教
一般的に宗教といえば、「教祖・教義・戒律・崇拝対象」を持っています。
しかし、『神道には何もない』のです。
神道は、無教祖・無教義・無戒律・無偶像・無組織です。
しかも、かつては社殿もなかったのです。
神道は、いわば『大自然崇拝教』です。
大自然に秘められている「神秘性」と「法則性」への深い洞察
そこに感じられる「奇しき」ものへの畏敬と感謝
それらを私たちの祖先は、神話や祭祀によって様々に表してきたのです。
教祖とは大自然
神道は「無教祖」です。
神道は、他の宗教と異なり、誰かが提唱したものではありません。
この列島に生きた、名も遺さない人々の間で生まれ、育まれ、できあがってきたものです。
『教えは人からくるのではない』という考え方から、神道が教祖を持たないのです。
「教祖とは大自然」なのです。
神道は無偶像
神道には、基本的には偶像や象徴はありません。
神殿や岩坐(いわくら)といった自然の物に向かって拝みますが、それ自体を拝んでいるわけではないのです。
では、神殿の奥に鎮座する鏡はどうでしょうか。
鏡は、神影を映す宝器であり、神霊の現れる際の霊光のシンボルです。
きわめて抽象的なシンボルであって、像とは言えないのです。
組織もない神道
神道には確固とした組織というものがありませんでした。
村落での神祭りの組織や、有力神社の祭祀組織はあったのですが、国家レベルや社会レベルでの神道の組織は存在しなかったのです。
明治に入り、政府が神道を管理して「国家神道」が生まれました。
戦後は神社本庁を中心にした任意の神社連合が残ったのですが、これに属していない神社・教派はいまだに多いのです。
神社に社殿はなかった
かつて、神道の聖域には建造物や鏡などはありませんでした。
仏教が日本に伝来し、寺院を建立するようになってから、それに追随する形で造られ始めたのです。
今のように本殿や拝殿にご神体を鎮めて、「神の住みたまう処」としたのは、神道の歴史からいえば最近のことなのです。
神はそのような建物やご神体に常駐されるものではありません。
しかるべき時に、しかるべき聖なる場所をしつらえて、そこで神祭りをして、神霊をお迎えしたのです。
神迎えの場
その神霊を迎える場を「斎庭(ゆにわ)」と言います。
それにふさわしい特別な場所のことを、「神奈備(かんなび)」と言います。
私たちの祖先は、このような神祭りにふさわしい、特別な場所があることを感じ取っていたのです。
その「神奈備」は、多くが形の美しい山です。
旧官幣大社と言われる神社には、たいてい裏山があって、そこに奥宮を祭っています。
もともとその山が神迎えの中心であり、神社は後から拝礼のために設けられたものなのです。
奈良県の大神神社(おおみわ)、福岡県の宗像大社、京都の上加茂神社、奈良の春日大社などがその典型的な例です。
特に、三輪明神として知られる大神神社では、今でもご本殿に相当する建造物はありません。
三輪山がご神体なのです。
「清明正直」が神道の本源
神道の根源にある思想は、「清明正直」です。
「清く」「明るく」「正しく」「直く」が、人間として最も大切なことであると説いています。
「清明」は、「清い、つまり汚れがなく」、
「明るい」心という内面的な心持ちのことであり、「正直」とは「正しい、つまり悪や罪科を犯さない」、
「素直」な行いという行動面・社会面のことであるとも言います。
この「清明」を保つには、自らの「心の浄め」をしなければなりません。
祓いに始まり祓いに終わる
神道は「祓いに始まって祓いに終わる」とされています。
「祓い」こそ、神道の思想の中核にあるものです。
祓いには、神道の根幹をなす神秘的な意味が込められています。
まず、罪・科・汚れを落としてきれいになるということ、そしてそのために御贖物(みあがもの)を差し出すということ、さらにそれを通して、自己の心身の活力を更新するということが含まれているのです。
「言霊」による祓い
「言霊」とは、神霊の御稜威(みいつ)(威光、威徳)を宿した、神秘的な力を持った言葉です。
古代日本人は、「言霊」の力を大切にしてきました。
日本は「言霊」によって守られ、祝福された国であります。
和歌などもその「言霊」の調べを映したものであると考えてきました。
また、「言寿」といって、よい言葉をかけることによって、相手を幸福にすることもできると考えられていました。
「言霊」は、神霊より啓示された言葉であり、また神霊を呼び醒ます言葉でもあります。
神道におけるその代表が、「大祓詞(おおはらいことば)」です。
延喜式にも記載されているこの祝詞は、「中臣祓(なかとみのはらえ)」とも言われ、広く神前で奉唱するものとして伝えられてきました。
内なる神
人間はみな神の子です。
私たちの内には、「直日霊(なおひのみたま)」があります。
それは、宇宙創造神=大元霊の分霊です。
この直日霊は、汚れることはなく、大いなる智慧を持ちます。
この直日霊を、また「真我」とも言うのです。
その真我の声を聞くためには、われわれは「瞑想の静聴」をしなければなりません。
それが「鎮魂」ということなのです。
それによって初めて、真我と自我は矛盾のない関係になり、表裏一体になります。
それを「神人合一」というわけです。
神人合一とは、「神と人が精神的に融合する」ことです。
奉仕への道
神人合一の境域が深まっているかどうかの、最も重要なことは、「人格が陶冶されているかどうか」です。
このことがなければ、いかなる神秘体験も霊能力も意味をなしません。
神人合一の境域の体験というのは、第一段階であります。
次には、「奉仕の生活」という転換が必要なのです。
神道とは、「神のごとくになるために、神の御心、御行いを見習っていく」ということです。
また「見えざる神の働きに奉仕する」ということと考えます。
正しい祈りとは
鎮魂行における祝詞や大神呪奉上は、単なる精神統一ではありません。
言霊による祓いという一面もありますが、その底には、「神への真摯な祈り」がなければなりません。
正しい祈りとは、「魂の中に溢れるばかりに神様をお慕い申し上げる」ことです。
魂とは、ある意味で放送局のようなものです。
われわれの想いや感情は、いつも電波(念波・霊波)となって外に発信されています。
その魂に神への敬慕を一杯に満たすと、それは宇宙の涯までも届くのです。
それを正しい祈りというのです。
だから、まず祈りというものは、内に向かって語る、一心に思うということでなければなりません。
神への感謝
自己の欲望や願望を超越することはむずかしいでしょう。
また、他者への慈愛に生きることはなお困難かもしれません。
であるなら、まず神への感謝と憧れの念を心の内に育てることです。
幕末の宗教家・黒住宗忠は、神への心よりの感謝こそ信仰の本質だとし、常に「ありがたい、ありがたい」と口にしていました。
神霊の加護を願うには、なによりも神への感謝と憧れを心に満たすことです。
それは、必ず清明な念波・霊波となって神霊に届くはずです。
人は時に不遇が続くことがありますが、近視眼で見てはなりません。
人生というものは、だいたい15年単位で運命の変化がやってくるものです。
不遇な時ほど、神への感謝を持つ必要があるのです。
神道の神秘―古神道の思想と行法 | ||||
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山蔭基央(やまかげもとひさ)
1925年(大正14年)岡山県生まれ。18歳の時に肺結核を患い仮死状態になるが奇瑞によって回復、その後修行中に失明者を癒す体験などを経て神道修行に入る。1949年(昭和24年)、明治天皇外戚家中山忠徳の猶子として山蔭神道家第79代を相続する。1966年(昭和41年)、宗教法人山蔭神道を設立、管長となる。1960年(昭和35年)には、亜細亜大学に近代経済学を学び、政治経済の研鑽を深める。