「神道〈徳〉に目覚める」葉室頼昭

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「神道〈徳〉に目覚める」葉室頼昭

 

人間は「徳」を持ってはじめて人間と言えるのではないでしょうか。

神さまや祖先に感謝する。

親を敬い大切にする。

自分以外の人や世間の幸せを考えて努力する。

自然の素晴らしさに感動する。

神さまが人間にだけ与えられた、いわゆる「徳」というものを積まないと人間にはなりません。

神さまはもともと人間には、徳というものを与えておつくりになった。

人生のいろいろな経験でそれを磨くことによって人間の真実の徳が現れ、本当の神さまの目的である神に近づく。

いかにして徳を磨いて現すかというのが人間というものだと思うのです。

 

陰徳とは

陰徳というものは、それが時空を超えて、現在の私のところにきているのです。

感謝や見返りを一切求めない。

人の悦ぶことをすることが、一番いいのです。

こういうことの積み重ねが陰徳になり、やがて子々孫々にまでその余徳が及んでいくのです。

この陰徳というのは、大きな努力をして、小さな結果を求めなさいということです。

自分の努力に見合うような結果は得られないかもしれません。

しかしそれが陰徳となって、子供や孫や子孫に伝わって、子孫が繁栄するのだと思います。

もともと日本人は、徳を積むということが人生そのものであり、子供の教育でもあったわけです。

 

徳を積む

徳を積まないと、人間の「いのち」は続きません。

神に感謝し、祖先に感謝し、祖先を祀る。

そういう徳を積み、自分を磨かなければ、人間のいのちは伝わっていかないのです。

『徳』、すなわち人間のいのちです。

人の幸せのために生きるとか、世の中を幸せにしていく。

それが徳です。

そういうことによって、人間が本来持っている徳というものが磨かれて出てくるのです。

 

八百万の神とは

日本は昔から八百万神といって、いろいろなところに神さまを見るという伝統があります。

日本人は、神道に見られるように、神さまをただお悦ばせすることが、日本人の信仰というか考え方の根底にあるのです。

その神さまがいちばん悦ばれることとは、神さまのすばらしさを認め、それをほめたたえることです。

そうすればお願いしなくても、お恵みをいただけるというのが神道です。

 

罪穢れを祓う

神さまを認めるためには、自分の内に神の姿がなければ、認めることはできません。

また、神様をお悦ばせすることができないのです。

そのため、日本人は祓いということを昔からやってきたのです。

罪・穢れというのはすべて我欲のことです。

神さまは、素晴らしい神の姿に人間の身体をお造りになっておられる。

ですから、その姿を隠してしまうツミやケガレを祓って消せば、当然本来の素晴らしい姿が現れてくる。

そうして自分のなかにある神さまの姿を現そう、神様の素晴らしい美を認めようとしてきたのが日本人です。

 

自分の中に神がある

日本人は神にすがることはしません。

逆に自分の我欲を祓って、神の姿を現そうとしてきました。

ですから、自分のなかに神があれば、自然のすべてのものに神を見るということができるわけです。

山にも木にも花のなかにも、すべてに神を見る。

あらゆるところに神を見る。

これが日本人の八百万神ということです。

 

神道的生活とは

人のためにいきるということは大切です。

さらに、神さまをお悦ばせするために生きることは最高の生き方です。

神さまのために生きるというのは、どうやったら神さまに悦んでいただけるかということを考えます。

いちばん救われるのは自分です。

神道というのは日本人の人生観なので、別に神道という宗教があるわけではありません。

神道には修行というものはありません。

神道は毎日の生活のなかでわが身を磨きます。

現実の生活をやりながら、我欲を捨てていきます。

すべて神さまの導きに従います。

病気になろうと、石打たれようと、死にそうになっても、神さまのお導きとして感謝する。

そうやって人間は我欲を減らして、神さまに近づけるのです。

毎日の生活のなかで、身を浄め我欲をなくすということは困難で厳しい道ですが、それが神道です。

宗教というような特別な戒律や教えはありませんが、毎日の生活が「神道」とのです。

 

かみということば

「かみ」ということばがあります。

「か」というのは、すべてのいのちを含み持っている、宇宙の神秘のすべてを含んでいるということばです。

「み」というのは、満ち満ちたという意味であり、美しいという意味でもあります。

ですから神というのは、そういう神秘的なすばらしい力に満ち満ちた美しいお方さまという敬語です。

またこの「かみ」という言葉は、仏教でいういわゆる「南無」と同じ意味をあわせ持っています。

「かみ」と言うことによって、神を称える敬語であると同時に、神と一体になるということができるのです。

日本にはゴッドというものは存在しません。

ゴッドは、一神教における唯一絶対の存在に対する敬称です。

日本には八百万の神々、たくさんの神さまがおいでになるわけですから、この神々がみんな唯一絶対なんてことはあり得ません。

本来はお名前をお呼びして、神さまと一つになるというのが「かみ」ということばなのです。

 

共生という生き方

日本人の生き方というのは、まさに神道に見られる生き方であり、すべてのものと共生するという生き方が根本です。

これは、あらゆることに対立しないで生きていくという生き方です。

すべてのものと一緒に生きるという共生からすべてが出発しているのです。

相手のすばらしさを認めて、それをほめ、それと一体になって生活しようというのが、日本人の本来の共生ということです。

仏教が入ってきても、仏教を排斥しないで、それを受け入れて、いいところを取り入れていく。

この何でも自分のものにして取り入れるというのは、すばらしい日本人の生き方なのです。

日本人は取り入れて自分のものにして進歩していける力をもっているのです。

 

 


「神道〈徳〉に目覚める」葉室頼昭
神道“徳”に目覚める

葉室頼昭(はむろ よりあき
1927年、東京生まれ。学習院初・中・高等科をへて大阪大学医学部卒業。大阪大学医学部助手、大阪市大野外科病院長などをへて、1968年、葉室形成外科病院を開業。医学博士。1991年、神職階位・明階を取得。枚岡神社宮司をへて、1994年、春日大社宮司。1999年、階位・浄階、神職身分一級を授与さる。2009年、逝去。著書に、『〈神道〉のこころ』『神道と日本人』『神道 見えないものの力』『神道〈いのち〉を伝える』『神道〈徳〉に目覚める』『神道 夫婦のきずな』『神道と〈うつくしび〉』『神道と〈ひらめき〉』『神道〈はだ〉で知る』『神道 感謝のこころ』『神道 いきいきと生きる』『心を癒し自然に生きる』『CDブック 大祓 知恵のことば』『神道 おふくろの味』(以上、春秋社)『御力』(世界思想社)『にほんよいくに』(冨山房インターナショナル)など。

 

 

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