神とは
宇宙のあらゆる力や形の存在を維持しているものは神の霊だ。
しかも、この神の霊は同時に、波動で構成されたいっさいの現象界から隔絶した至福の虚空に住する超越的存在でもある。
神は、すべての人間を、ご自身である無限の至福から創造された。
人間は窮屈な肉体の中に閉じ込められているが、しかし神は、ご自分の似すがたにつくられた人間の魂が、最後には感覚的自我意識を完全に抜け出して、再びご自身と一体になることを望んでおられるのだ。
神は応えてくれる
神はすべてのものに応え、すべてのもののために働いてくださる。
神は、信ずる者の心からの願いは何でもかなえてくださるのだ。
だが人間は、神がどんなに自分たちの祈りに耳を傾けていてくださるかをほとんど知らない。
神は、一部の人を編愛されるようなことはない。
ひたすら信じて近づこうとするすべての者の祈りを聞いておられるのだ。
だから子たる者は、偏在の父の愛に対して、常に絶対の信頼を持っていなければならない。
魂は自由である
人間は、自己の霊性に目覚めれば目覚めるほど、物質的に支配される度合いが少なくなる。
魂は、もともと永遠に自由なのだ。
人間は魂であって、肉体はその一時的な所有物にすぎない。
人は自己の本性を正しく認識したとき、いっさいの現象的法則の束縛から自由になることができる。
神は調和
神は調和だ。
神に意識を合わせている者は、何をしても決して間違うことはない。
人は深い祈りや瞑想によって、自己の内奥に宿る聖なる意識に触れることができる。
そしてこの内的守護こそ、何物にもまさる偉大な力なのだ。
人間は自己の本性を深く悟れば悟るほど、自分の霊的波動によって全宇宙に働きかける力が増し、自分自身もまた環境の力の影響を受ける度合いが少なくなる。
人間は、現在のかりそめの生涯において、社会的に指導的な役割を果たしていようと、無名の存在であろうと、みな重要な宇宙の構成要素なのである。
人間の究極の自由すなわち解脱は、すでに確定的なものであり、もし真に望むならばすぐにでも与えられる。
そしてそれは、本人が、外的ではなく内的な障害に打ち勝てるか否かに掛かっているのである。
宇宙映画
ちょうど映画の画像が、真実のごとく見えていながら、実際は光と陰の合成にすぎないように、宇宙の諸現象もまた単なる幻影にすぎない。
多種多様な生命体を擁するこの天体宇宙は、まさに宇宙映画なのである。
すなわち、神の無限の創造光線によって人間意識のスクリーンの上に映し出された宇宙ドラマの立体映画を、人間の五感が真実のものと感じているにすぎないのである。
多彩な宇宙映画もまた同様に、宇宙の本源から発する一つの無色の光から出来ているのである。
神は、はかり知れぬ巧妙さをもって、その子らである人間を楽しませるために、彼らを宇宙劇場の俳優兼観客に仕立てた。
万物は光と影で出来ている。
形を表すにはこの両方が必要だ。
もしこの世に喜びばかり続いたら、だれが別の世界を求めよう。
悩みがなかったら、人間は自分が捨てた永遠のすみかのことをほとんど思い出すことはないだろう。
苦悩は、それを思い出させるための刺激の針なのだ。
苦悩から抜け出す道は、英知によってのみ開かれる。
死の悲劇も、真実ではない。
人は、この世界が単なる巨大な映画にすぎず、自分の実体はこの画面の中の自分ではなく、この画面を超越した別のところにあるということを真に悟るようになったとき、その人の価値は根底から変わってくるのである。
許しは聖なる行為
人類の存続は、人間が互いに許しあうことによって可能となる、といわれてきた。
許しは聖なる行為である。
世界は、許しによって共存している。
許しは偉大な力である。
許しは犠牲である。
許しは心の平安である。
許しと柔和は、心の平安をもたらす根源であり、永遠の徳性である。
宇宙法則
豊かさは、リタ(宇宙法則)本来の性質であって、物的富も霊的富も、リタの必然的現われである。
自然は本来、豊かさに満ちあふれたものなのである。
人間がこの地球上に何度も生まれ変わって来る目的は、その幾生涯の経験を通じて、霊のもつ無限の性質を物資的条件のもとでできるだけ豊かに表現し、かつ、物質に対する霊の支配力をより完全に現わすための方法を学ぶためである。
輪廻転生からの解放
人間はみな、幾たびも生まれ変わって、それぞれのペースに従い、自己の神性の実現を目ざして進んでいる。
死は、この進化の旅を中断するものではなく、旅のよごれを洗い落として幽界という、より快適な環境に導く門にすぎない。
死とは、存在の消滅でもなければ、生からの永遠の逃避でもない。
人間が自己の霊性という不滅の黄金を鍛えあげる場所は、この荒っぽい地球というかなとこの上でなければならない。
貪欲な死を満足させる唯一の贈り物であるこの得がたい黄金の宝を手に入れないかぎり、人間は、この世への生まれ変わりから解放されることはできないのである。
真実とは
真理とは、実在との完全な一致をいう。
人が「真理にある」とは、魂としての自己を片時も見失うことなく自覚していることである。
イエスの生涯におけるあらゆる行為と言葉は、自己の存在の源泉が神の中にあることを、彼が常に自覚していたことを物語っている。
偏在するキリスト意識と常に完全に一致していたからこそ、彼は「だれでも真理にある者は、わたしの声を聞く」と断言することができたのである。
仏陀もまた、人間のこの地上における短い人生は徳性の完成のために費やすのが最善の生き方である、と割り切った指摘をした。
人間の魂は絶対者から生まれて最後に再び絶対者の中に合一するまでのそれぞれの生涯を通じて、神の無限の属性の中の一部をおのおの独自の形で表現するように神がおつくりになったのである。
すべての人間はこのように、神の個性の一面を賦与されているがゆえに、神にとって等しく貴重な存在なのである。
神は愛
神は愛である。
それゆえ、神の創造の計画も、ひとえに愛に根ざしているはずである。
この単純な思想こそ、いかなる博識の論理にもまして人の心に慰めをもたらすものではないだろうか。
神の宇宙計画は現実に存在し、それは美しくまた喜びに満ちたものである。
あるヨギの自叙伝 | ||||
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パラマハンサ・ヨガナンダ(Paramhansa Yogananda)
1893年インドに生まれ、真我覚醒のインド古代科学を西洋にもたらすべく、若年のころより訓練された。1920年、アメリカ合衆国に渡った。1946年には、「あるヨギの自叙伝」を出版。本部の設立、書籍や学習教程の執筆、合衆国のほとんどの大都市での講演、作詩や作曲、弟子たちへの教育訓練などを行った。最高位の瞑想テクニックであるクリヤ・ヨガをマハトマ・ガンジーに授けている。