裏の体育とは
西洋の科学思想による医学、栄養学をもとにした現在の学校体育を「表の体育」とするなら、日本の伝統文化を核に個人が直感と体験によって打ちたてた民間の健康法、鍛錬法は「裏の体育」として取り上げることができる。
裏の体育のなかでは、理科系も文科系もひっくるめ、全科的傾向に必然的になっていく。
日常の生活方法から、ものの考え方、思想、時には宗教的問題にまで関わる広がりを持ってくる。
裏の体育は、幕末の加持祈祷や気合術、さらに明治の日本に輸入された催眠術をこれらと融合させた「霊術」と呼ばれるものであろう。
霊術および霊術家という言葉は、今日ほとんど使われることはない。
しかし、戦前この言葉は今日のヨガや太極拳ほどに知れわたっていた言葉だったようだ。
裏の体育で重要な「丹田」
「丹田」の重要性は、ほとんどの民間健康法や霊術等の裏の体育に共通して主張されている。
この「丹田」という言葉こそまさに裏の体育を象徴している言葉ということができよう。
昔から「腹で動け」「腰を入れろ」「下腹に力を入れて耐えろ」などと言われてきたのは、みなこの丹田を中心に動作しろ、という意味である。
そこはいわば重心点のようなところであり、何も特別な内臓器官があるわけではないので、「丹田力」とか「丹田の働き」といっても、それを表現するには、詩的、文学的表現によらねばならない。
したがって、丹田を強調する種々の技芸や健康法でも、丹田の具体的表現については、それぞれ苦労しているのが現状である。
この「丹田」というものが、表の体育で検討される時、理科系も文科系もひっくるめた新しい自然観察学、人間探究学とでもいうものが芽ばえてきた時と言えるだろう。
そうなれば、人間同士の相互理解は今よりずっと深まるであろうし、人間以外の鳥獣魚虫、草木等の生物全体の共生を本質的に検討する地球規模のネットワークもできてくるであろう。
武術の特異性
日本の体育の歴史を考える場合、それはすなわち武術の歴史となる。
武術は、現在のスポーツ中心の体育とはくらべものにならないほど精神的、心理的問題が深くかかわってくる。
生死をかけた立合ともなれば、心身は単に「あがる」というなまやさしい状態を越え、筋肉の痙攣硬直、失禁、失神などの状態が起こりやすくなってくる。
したがって、武術としての体育では、体の鍛錬を通して、身体と同時に精神も鍛えねば意味がない。
その身体も精神も鍛錬によって、わずかな気配も敏感に察知しつつ、しかも動じないといった、いわば鈍さと鋭さを同時に兼ねそなえたような状態が必要なのである。
このように武術は、矛盾した心身の状態を、矛盾なく体の中で感覚としてとらえることができるようにならねばならない。
そのため、武術の稽古は、よく「精神修養」であるとも言われてきたのであろう。
丹田は、現代の一般常識ではきわめてとらえ難く、説明しにくいものである。
そのため現代社会では受け入れがたいが、「武術」を通すことで、現代でもこの丹田が反発を受けずに受け入れられるようだ。
「気」「気合」といったものでも、この武術という世界を通すと、一般社会の抵抗もずっと少ないように思われる。
人間にとっての自然とは
「裏の体育」は、傾向として「心身を不離の関係とみる東洋的な自然観に支えられたものである」ということができる。
この考え方は、自然との調和を見出そうとするものである。
東洋の思想は常に自然の働きを直観的に理解することによって、不安の克服と、生きる意欲の充足を果たそうとしていたと言えるだろう。
このような考え方は、特に日本人に顕著であったようだ。
「自然に委ねる」ということを最大の原則としている文化は、経験を積み、代を重ねても、それによって自然環境が破壊されるというようなことは、決して起こらないであろう。
すなわち「自然に任せ、自然に還る」という大原則は、経験を分析することにより、知識がすさまじい自己増殖をして、機械・科学文明を生む、というようなことは起こらないからである。
東洋は道具の文明、西洋は機械の文明とも言えるのはこのような背景があるからであろう。
そして、東洋がこのような基本思想を持った大きな理由は、心身不二の観方であり、しかも、それを実際の日常のなかで体感として確信できるようにするため、この心身不離の相互乗り入れ点を「丹田」という形でいわば記号化して持っていたからではないだろうか。
その「自然な生き方」を追求するために最小限必要なものが、「丹田」とよび「気」といった体感的概念だったのではないだろうか。
本質的体育の探求を
本質的体育とは、それを実践研究していれば、自ら「人間存在の意味」といったことにまで思いが及んでくる。
つまり、「本質的体育とは、その人の生きる根本的な姿勢を決するものだ」ということである。
より本質的に自らの身体に責任を持って身体を維持し育てるということは、日常の生活行動はもとより、怪我や病気に対してもそれにどう対応するか、ということまで含んでいるからである。
自らの健康維持は、自らの死生観を確立し、それに従って行うべきである。
表の体育 裏の体育
日本の近代化と古の伝承の間に生まれた身体観・鍛練法
甲野善紀(こうの・よしのり)
http://www.shouseikan.com/
1949年、東京生まれ。武術を基盤とした身体技法の実践研究者。1978年、武術稽古研究会・松聲館を設立し、他武道や異分野との交流を通して、現在では失われた精妙な身体技法を探求。2000年頃からスポーツへの応用で成果がみられ、以後、スポーツの他、音楽、舞踏、介護など多方面から指導の要請を受ける。こうした流れから、2003年10月、武術稽古研究会を解散。よりさまざまな分野との多角的な交流をはじめる。
著書に、『武術談義』(黒田鉄山氏との共著、壮神社)、『古武術に学ぶ身体操作』(岩波アクティブ新書)、『NHK人間講座「古の武術」に学ぶ』(日本放送出版協会)、『古武術の発見』(養老孟司氏との共著・光文社文庫)、『縁の森』『武術の視点』(以上、合気ニュース)、『スプリット』(カルメン・マキ、名越康文両氏との共著)『剣の精神誌』(以上、新曜社)、『剣の思想』(前田英樹氏との共著・青土社)、『古武術で蘇るカラダ』(監修・宝島社)、『自分の頭と身体で考える』(養老孟司氏との共著)『武術の新・人間学』『古武術からの発想』(以上、PHP文庫)、『武術の創造力』(多田容子氏との共著・PHP研究所)など多数。