退行催眠により、多くの被験者たちが肉体を持たずに意識として自覚している「中間生」(あの世)の記憶を残しているがわかりました。
私たちが「あの世」と呼ぶ世界は、「この世」でいうような「物質」がなく、直線的に進む「時間」という感覚もない世界です。
そこではすべてのものが、物質ではなくイメージやビジョンとしてあらわれます。
中間生では、そのビジョンこそが「現実」なのです。
その意識体の姿は、しばしば「光のようだ」と表現されます。
私たちの本来の姿は「光」であり、光としての波調の高さ(強さ)によって、そのまぶしさが異なるようです。
意識体としてのレベルが高いほどまぶしく光り輝き、レベルが低いほど暗く沈んで見えるのだそうです。
どのような人も、本来はみな「光」なのです。
生まれ変わりの基本法則
私たちのだれもが、人生を再現するビジョンを見せられながら、終えてきた人生におけるすべての言動の説明を求められます。
そこで問題とされるのは、私たち一人一人の誠実さ、道徳性のみだそうです。
ここで問われるのが、「どれだけ人々を愛したか」「つねに良心的な言動をとったか」ということのみです。
この世でもうけたお金や、得た地位がいっさい評価されません。
これこそが、生まれ変わりの基本原則だということができるでしょう。
うだつのあがらないサラリーマンとして一生が終わったとしても、その人生で多くの人々に愛情を与え、かかわった人々を幸せにしてきた場合には、指導役の意識体たちからたいへん賞賛され、自分の成長度を確認して大いに満足することができるのです。
人生の自己計画
退行催眠の研究の成果は、肉体に宿っていない状態(中間生にいる状態)のあいだに、私たちが自分自身で、次の人生を計画するという仕組みがわかったことです。
被験者たちは、指導役の意識体たち(光の存在)の前で、終えてきた人生を振り返って反省したのち、彼らの助言を参考にしながら、自分で次の生まれ変わりの人生計画を立てたことを思い出します。
この時、何度もの人生を通じて太いきずなを築き上げてきた、ほかの意識体のソウルメイトと相談しながら、次の人生を計画することが多いこともわかっています。
このような「グループ転生」は、頻繁に繰り返されており、互いに仲が良い場合も悪い場合も、過去生に登場した人物と、再び関わりあうことになるのだそうです。
人生設計のしくみ
私たちは、自分で自分に与えるべきいくつもの問題が、人生の最適な時期に生じてくるように「自動発生装置」をしかけておきます。
その問題が生じた時に、「良心的な、愛のある、前向きの解決方法」を選ぶか、逆に「良心的でない、愛のない、後ろ向きの解決方法」を選ぶかという、大きく二通りの選択肢を用意しておくのです。
それら問題のそれぞれの選択肢を分かれ目として、私たちの人生は、まるでフローチャート(枝分かれ図)のような仕組みになっているわけです。
そして、その問題に直面した自分が、ここで「良心的な、愛のある、前向きの解決方法」で対処することを選ぶことができた時、私たちはその問題をみごとに解いたことになり、成長の階段をひとつ上がることができます。
したがって、常にそのように心がけていれば、その人の人生はどんどん楽しい方向へと進んで行きます。
自分を助けてくれる温かい人々が不思議なほど次々にあらわれ、充実しきった人生になっていきます。
しかし、いつも「良心的でない、愛のない、後ろ向きの解決方法」で対処してばかりいると、緊張、争い、疑い、敵意に満ちた方向へと進んで行くことになります。
そして、転落と苦難につながる事件が不思議なほど次々におそってきたり、自分を守ってくれる人々が次々に去っていき、厳しくさびしい人生になっていくのです。
このような現象のことを、私たちは、「運が良い」とか「運が悪い」とか呼びます。
「運」というのは、こうして自分自身で用意しておいた「ごほうび」や「試練」を、自分で選んでいるということなのです。
わざと厳しい環境を選択
たとえば私たちが、人よりも困難な人生を送らなければならないとしても、かならずしも過去生で悪いことをしたために、それを償っているとはかぎりません。
むしろ、わざと厳しい条件に身をおき、一定の試練を受けることによって、大きく成長する機会をもうけている場合が多いからです。
しかも、生まれつき非凡な才能を持っているような場合、それは過去の人生で培ってきたものだということも、一連の退行催眠から明らかになりました。
この世の環境を選ぶのは、私たち自身です。
その人がどのような人生を歩んでいようとも、どの人のおかれた状況も、偶然のなりゆきでも不条理でもないということがわかりました。
中間生の意識状態で客観的に見れば、どの人の体験も、宇宙という教室の授業のひとこまにすぎないのです。
肉体を持って生れてくる「人生」という授業の中で、学べば学ぶほど、私たちの成長も早くなるわけです。
病気や障害は
病気や障害であることは、ほかのだれのせいでもなく、自分自身で計画した貴重な試練であり、たいへん高度な試験問題であることがわかっています。
自分をおそった障害や病気には重要な意味があり、その試練にうち勝てば、「成長」という大きなご褒美が用意されているのです。
また次の人生では、ふたたび完全な身体として生まれ変わるのが自由自在であることも証明されています。
「死後の生命」や「生まれ変わり」の仕組みを理解すれば、すべての悲劇に貴重な意味が生まれます。
単なる不幸が成長の機会へと変わり、多くの意識体たちが激励してくれていることに勇気づけられるのです。
人間関係も修行
私たちが物質世界に生れてくる理由は、主に「人間関係」という試練を乗りこえて成長するためだったのです。
相手を信用することができるか
たとえ裏切られたとしても
相手を責めないで許すことができるか
たとえ相手が悪意を持って自分を傷つけたとしても許すことのできる人は、無条件の愛情をそなえた人です。
まわりには多くの人々が集まってくることでしょう。
人間関係という貴重な試練を経験し、自分の「愛の水準」を確かめ、高めていくためには、肉体を持ってこの物質世界に生れてくるしかありません。
だからこそ、私たちは、わざわざ何度も何度も肉体を持って、物質世界に「人間関係の修行」つまり「愛の修行」をするためにやってくるのです。
親子や夫婦、親友や宿敵などの人間関係にはすべて深い意味があり、それらの人々は、過去何度もの人生を、深くかかわり合いながら修行してきた、いわば「戦友」たちなのです。
死は「ふるさと」への帰郷
人間の肉体には、限界があります。
意識体としての私たちが永遠でも、必ず肉体の方は定期的に取り替えなくてはならなくなります。
それが、この世でいう「死」ということなのです。
つまり、「死」というのは、肉体という「器」の交換であります。
そのついでに、そこまでに解いた問題と解き残した問題とを確認し、どうせなら新しい問題集に作り替えてまた生れてくるということにすぎません。
「死ぬ」ということは、ただ「肉体」という衣服を脱いで着替えるだけにすぎないこと
次にどのような衣服を着るかは自分で選択できること
先立った懐かしい人々との再会が待っていること
この世に残す家族はやがて自分が迎えに来ればよいこと
このことを知っていれば、死の瞬間を、どんなに大らかな気持で待つことができるでしょうか。
「死」とは、この世での修行を終えて、ふるさとに帰って行くことです。
死を迎える時には、「さて、次はどんな人生を計画してみようかな」と、洋々たる未来を想像しながら、夢いっぱいで死んでいけばいいのです。
自分らしさを追求する
私たちの人生は、その最終目的が「修行」であり、「自分で計画した問題集を解くこと」であります。
決して「つらいだけの苦行」ではないということです。
日々の生活では、大いに楽しみ、創造的に生きるべきであることがわかります。
多くの人々と出会い、大いに愛し合い、力を合わせ、自分なりの趣味や娯楽を楽しみながら、計画しておいた課題を解いていけばよいのです。
人生とは、「自分らしさ」(アイデンティティ)の追求の場であり、さまざまな価値を創造しながら成長していく過程だといえます。
「自分らしく生きること」は、私たちに人間として与えられた、根本的な修行課題です。
人生は「楽しい修行」
多くの旧いソウルメイトたちと再会し、あらたにソウルメイトとなってくれる人たちと出会うことこそが、「楽しみながら学ぶ修行」の意味であることは明らかです。
「人づきあいは面倒だから」といって敬遠しているかぎり、意識体としての進歩はのぞめず、わざわざ地球に修行に来ている意味がありません。
私たちは、「偉大で、強くて、力のある存在」であり、「生命を発展させ、人類という名で知られる大いなる冒険に参加しようとする、勇気を持った意識体」なのです。
私たちは、「自分からすすんで、楽しみながら学ぶ修行をしに来ている」のです。
生きがいの創造 | ||||
|
飯田 史彦
http://homepage2.nifty.com/fumi-rin/
1962年、広島県生まれ。経営心理学者、カウンセラー、いのち作家、音楽療法家。1990年より2009年3月までの19年間、福島大学経済経営学類の助教授・教授を務め、東北大学大学院、筑波大学大学院などでも開講。2009年3月末で教授職を辞し、「誰のいかなる悩みに対しても、飯田自身が2時間をかけて無償でカウンセリングを行う」という画期的な施設、「光の学校」を設立した。また、「飯田史彦メンタルヘルス・マネジメント研究所」も開設し、一般企業や医療・福祉・教育機関などの依頼で経営コンサルティングを行いながら、講義CD『生きがいの経営論』(日本経営合理化協会)などを発表している